安住

大人一人がすっぽりと埋まる砂の中の空間で必死になって地上を目指ざす自分がいる。掻いても掻いてもまた別の砂で埋まっていき、出口は決して姿を見せず、行手を塞ぐ。砂は脆さ儚さの象徴だと言われているが、僕には掻く砂が過ぎ去った記憶のような気がした。


「見て、採ったよ、カブトムシ。こっちにはクワガタもいる」

就学する前だろうから5歳くらいだろうか。僕の気持ちの高鳴りは最高潮に達した。

「バナナトラップが功を奏したようだ」

叔父は満悦した様子で、白い歯を僕に向けた。お盆休み母方の実家に帰省中、夏休みの思い出にと叔父と二人で早朝から山へ昆虫採集に来ていた。叔父と僕は昨夜、焼酎にバナナや砂糖などを漬けて発酵させたものを山の2、3ヶ所に仕掛たのだった。

「もうこれだけ採れば十分だろう。さあ、帰ろうか」

この頃の僕は、人の話をよく聞く子で従順な性格だった。

「そうだね」

僕の虫カゴの中は、カブトムやクワガタなどで賑やかだった。ホームセンターで販売されているものとは訳が違い、自分たちで採ったという付加価値が僕を満足させた。


何故、今頃になってこんな記憶を思い出しているのだろうか。独房での生活は無味乾燥としているが、慣れてくればここへ来る時よりも居心地が良かった。

「何をぼんやりとしている。サイレンが鳴っただろうが」

刑務官のあまりの胴間声に僕は思わず我に帰った。独房の錠が外されると急いで廊下へと出た。刑務作業はつまらなかったが、何もやらないよりかは精神的に落ち着かせた。そして、靴の踵の部分を直すと刑務官の指示に忠実に従って作業場へと向かった。毎日、強制的に訓練をさせられているおかげで、動きに何一つ無駄がなかった。


昆虫採集に行ったあの日が幸せのピークだった。5歳にしてピークとは、神様に嫌われているに違いなかった。あれから、シングルマザーだった母が過労で急逝した。僕は祖父母の所へ預けられたが、その祖父母も持病があり先は長くなかった。したがって、結局、僕は児童養護施設に行くことになった。


「何をちんたら作業をしている。もっと、テキパキ作業をしなさい」

刑務作業は少しでも気を抜くと現場の刑務官に叱責される。パソコンの検品作業は、ベルトコンベアーから部品が流れてくる流れ作業だ。手の動きが遅かったので、僕より後にいる受刑者に支障が出たのだろう。今日は、いつになく作業に集中出来なかった。ここでの作業中の僕の呼び名は118番だった。各受刑者は番号で管理されており、決して名前で呼ばれることはなかった。そのようにして受刑者の個性を奪っているのかもしれない。


当初は、人を殺すつもりは全く無かった。窃盗をする目的で家に侵入したまでは順調だった。よもや、老夫婦が居たなど、想定外だった。事前に下調べはしており、計画に抜かりは無かったはずだ。

「あなた、だあれ?」

夫人は平静を装っているふうだったが、目は明らかに動揺していた。咄嗟に受話器の方へと向かうと警察に電話をしようとしていた。僕は警察にバレたくなかった。ただその一心で夫人の下へ近寄ると、渾身の力を振り絞って首を絞めた。一瞬の出来事のように感じられたが、実際には5分以上経っていたと思う。夫人はうなだれ微動だにしなくなっていた。この時、こんなに人はあっさり死ぬものなんだということを知った。

「おーい、家内や。階下がうるさいが、何事かね」

僕は呪われているような気がした。主人の方は、犯行を恐れて台所にあった料理包丁で刺殺した。宣告された刑は無期懲役だった。


成人に達した僕は児童養護施設を出て、都内で独り暮らしを始めた。生活費を稼ぐことすら辛かった。学歴があるわけでもなく、取り立てて特別な技能もなかった僕は、自分の無能さに半ば人生を諦めていた。気が付けば、僕は他人の家に侵入して窃盗に手を染めるようになっていた。安易に財物を入手出来ることを知った僕は、窃盗を止めることが出来なかった。


昼食を挟み再び刑務作業へと戻る。あれから何年が過ぎったであろうか。戻り際、作業着姿を確認するための鏡に映った自分の姿は老けきっていた。皺はたるみ、毛髪は少なくなり、頬は痩けて見える。刑務所での暮らしは、時間の感覚を削ぎ落とすのだろうか。ついこの間、ここへ連れて来られたような錯覚をする。休憩時間に同じ無期懲役の受刑者に明日の仮釈放のことについて話していた。

「私はまだ若いからまだ仮釈放はあり得ないですわ。溝口さんはそろそろ仮釈放の可能性あんじゃないですか」

「そうだと、いいんだがね。何だか複雑な思いだよ」

僕は、曖昧な表情を作った。今年でいくつになるだろうか。もう既に少なく見積もっても還暦には達している。何せ僕は人を身勝手な理由で殺している。人を殺したという事実は刑務所を出所した後も消えることなく、一生ついてまわる。仮に仮釈放されたとして、世間で生きていく権利があるのだろうか。このまま、獄中で死んだ方がせめて世間の為になるのではなかろうか。それに、この刑務所での暮らしの方が僕の性に合っている気がする。この場所には、楽しいこともないけれど、辛いこともない。まるで時間が滞留しているこの空間の方が僕にとって幸せなのではないかと思う。世間は、僕にとって辛く冷たく、そして酷い存在だった。それに引き換え、ここはー。

「明日、ここを出られるといいですね」

「えぇ、まぁ」

僕は曖昧な返事をした。刑務所の窓越しには、晴れているのか曇っているのか区別するのに困るような天候が広がっていた。

健康ブーム

フィットネス・スポーツジムがここ数年で激増した。健康に対する思考の変化なのか、これはビジネスになると見込んだ経営者の仕業なのかは分からないが、とにかく、ジムの施設が目立つ。それだけ金銭を支払ってまで身体を鍛える人が多いのだろう。ひょっとすると、鍛えることだけが目的ではないのかもしれない。ジム仲間なるものを作って、そこで新たなコミュニティ、つまり、情報交換等をすることを目的としている人もいるのかもしれない。いずれにせよ、その数が急増していることに間違いはない。


斉藤賢治は、そんなジムに通う連中を腹底では蔑んでいた。

「自分の身体の健康も管理できないのかよ。そもそも、運動するのに金を支払うなんて搾取に等しい」

仕事から汗だくになりながら帰宅すると、まず風呂に入った。現場での作業はこの時期特にしんどい。風呂から上がるとラフな格好に着替え、日頃の不満を彼女に対してぶつけた。実は彼女も最近ジムに通い始めた一人だが、賢治があまりにジムに通う連中を非難するので、そのことは秘密にしている。

「さあさあ、夕食の支度出来てますよ」

二人は同棲している。今日のメニューはおでんだった。彼女は賢治の話を半分聞き流した。日頃の不満と言えばジムに関する事ばかりだったので正直辟易していた。

「この出汁には乳酸菌がたっぷり入っていてね、それでね腸の働きを調えてくれるのよ」

賢治は、そんな彼女の言い草には辟易していた。乳酸菌がどうのアミノ酸、リコピン……、それこそ健康のことに関してなら枚挙に暇がない。

「なぁ、恵。近頃、健康のことに関して敏感じゃないか」

「あら、そうかしら。あなたの気のせいですよ。せっかくの熱々のおでんが冷めてしまいますよ」

むしろ、冷めた方が賢治には良かった。毎日猛暑日が続いており、加えて風呂上がりで身体は熱かった。さらに、エアコンの故障ときている。熱々のおでんなど食えたものではなかった。


おでんの出汁に乳酸菌を含ませると身体に良いこと、あまりに冷たいものばかりだと腸の働きが悪くなるなからということで熱いものも身体に取り入れた方が良いことなどは全て、恵がジムのトレーナーから教えてもらったことだ。お互い真逆の思考の影響で、お互いが辟易し合っていた。


隣りでは彼女が気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている。二人は同じベッドで寝ている。しかし、この調子では、これ以上の仲になることは到底出来なかった。どうも彼女とは相性が合わない。付き合って3年以上経過しているが、頃合いを見計らって別れを告げよう。


彼女は役所からもらって来た離婚届を賢治に突きつけていた。卓上に置いた離婚届に賢治が万年筆で記入をし始めた。片手には印鑑を持っている。淡々と所定の事項に記入していった。離婚することに何の抵抗も見せずに。その姿は人間の形をした機械に見えた。

「あれ、そう言えば、私たちまだ婚姻届を出していないのにどうして離婚の話をしているのだろう」

彼女が疑問に思った瞬間、隣りでは賢治が気持ち良さそうに寝息を立てて眠っていたー。

秋葉原無差別殺傷事件についての空想アレンジ

自分の存在を時々確かめないと風景・景色という空間とやらに自分が吸収されているのではないか、と思う時がある。人が1人亡くなることなど、その人自身にとってみれば一大事だが、世情として見れば瑣末な出来事にも満たないだろう。

存在しているという実感がまるで沸かない。では他者の存在を奪取することによって、自分の存在を示せばよいではないか、自分の中に越えてはならぬ壁があったが、その壁を自らの手で壊そうと思い始めたのはこの頃だった。


大学卒業後鉄屑リサイクル会社に就職したが、他の同僚との折りも悪く、入社して1ヶ月足らずで辞めた。それからも派遣やアルバイトで職を得るもどれも半年と持たなかった。気づけば無職になっており、貯金も底を尽き、明日の飯を食うに困る窮状に陥っていた。独身、24歳、まだまだいくらでもやり直しが利く若造である加藤だったが、この世間に嫌気がさしていた。


上京したのはいいが、これほどまでに孤独感が募るとは露ほどにも知らなかった。日雇いの仕事を斡旋してもらって稼いだ金銭で、牛丼屋チェーン店吉野屋に入った。アパートは家賃を継続して滞納した影響で立ち退きを余儀なくされていた。日中の気温は40度近くにもなる酷暑日が続いている。アスファルトは照り返しが強く、立っているだけで蒸し焼きになりそうなうだる暑さだ。それにも関わらず加藤の心は冷え切っていた。


店員が牛丼を持ってきた。丼からは湯気が立ち上り眼鏡が一気に曇った。眼鏡を外し無造作にそれを手で拭くとかけ直した。眼鏡が曇る原因である湯気は、拭けば元に戻るが、俺の人生は拭いても拭いても拭ききれないほどに曇っているではないか。最近俺は、嬉しい思いをして少しでも笑ったことがあるか。いや、全くない。そう思うと涙が出そうになったが、出なかった。あまりに虚し過ぎて涙腺に栓がしてしまったみたいだ。加藤は、牛丼を胃の中に流し込むと会計を済ませ、うだる暑さの中に身を乗り出した。


もう全てがどうでもよかった。別に死刑になってもいい。ただ、自殺だけは回避したかった。少しでも俺の存在を世間に示しつけてやって、法の裁きを受けて死んでやるのだ。自殺なんぞ、負け犬がすることだ。せめて死ぬ時ぐらい目立って死んでやる。明日、前々から思い描いてきた事を実行しよう。秋葉原でー。


自分の存在を時々確かめないと風景・景色という空間とやらに自分が吸収されているのではないか、と思う時がある。人が1人亡くなることなど、その人自身にとってみれば一大事だが、世情として見れば瑣末な出来事にも満たないだろう。

存在しているという実感がまるで沸かない。では他者の存在を奪取することによって、自分の存在を示せばよいではないか、自分の中に越えてはならぬ壁があったが、その壁を自らの手で壊そうと思い始めたのはこの頃だった。


大学卒業後鉄屑リサイクル会社に就職したが、他の同僚との折りも悪く、入社して1ヶ月足らずで辞めた。それからも派遣やアルバイトで職を得るもどれも半年と持たなかった。気づけば無職になっており、貯金も底を尽き、明日の飯を食うに困る窮状に陥っていた。独身、24歳、まだまだいくらでもやり直しが利く若造である加藤だったが、この世間に嫌気がさしていた。


上京したのはいいが、これほどまでに孤独感が募るとは露ほどにも知らなかった。日雇いの仕事を斡旋してもらって稼いだ金銭で、牛丼屋チェーン店吉野屋に入った。アパートは家賃を継続して滞納した影響で立ち退きを余儀なくされていた。日中の気温は40度近くにもなる酷暑日が続いている。アスファルトは照り返しが強く、立っているだけで蒸し焼きになりそうなうだる暑さだ。それにも関わらず加藤の心は冷え切っていた。


店員が牛丼を持ってきた。丼からは湯気が立ち上り眼鏡が一気に曇った。眼鏡を外し無造作にそれを手で拭くとかけ直した。眼鏡が曇る原因である湯気は、拭けば元に戻るが、俺の人生は拭いても拭いても拭ききれないほどに曇っているではないか。最近俺は、嬉しい思いをして少しでも笑ったことがあるか。いや、全くない。そう思うと涙が出そうになったが、出なかった。あまりに虚し過ぎて涙腺に栓がしてしまったみたいだ。加藤は、牛丼を胃の中に流し込むと会計を済ませ、うだる暑さの中に身を乗り出した。


もう全てがどうでもよかった。別に死刑になってもいい。ただ、自殺だけは回避したかった。少しでも俺の存在を世間に示しつけてやって、法の裁きを受けて死んでやるのだ。自殺なんぞ、負け犬がすることだ。せめて死ぬ時ぐらい目立って死んでやる。明日、前々から思い描いてきた事を実行しよう。秋葉原でー。