行政書士試験結果など

 令和2年の行政書士試験がようやく終わった。去年と違い、今年は手応えがあった。

 法令科目では、憲法が難しく感じられた。勉強した箇所はほとんど出題されなかった。記述も不意を突くような問題が多く、思うように書けなかった。また、一般知識では、簡単な問題が多かったが、文章理解が3問中1問しか解けなかった。けれど、他の科目の出来が良く、行政法、民法に関しては、各1問間違えただけだった。そのおかげでマークシートに記入ミスさえなければ、記述抜きで190点で合格していると思う。

 この勉強した1年間を振り返ると、確かにしんどい時期はあったが、勉強することの楽しさの方が優っていたように思う。分からない箇所は、六法で調べたりするのは、なんというか、自分が研究者とか学者になったような気分になって、楽しかった。

 次の目標は、行政書士よりも数段階難しい司法書士に挑戦したいと思う。登る山が高ければ、その分、目標を達成したときの達成感も全然違うものになるだろう。

幸せとは

 幸せでないから幸せなのかもしれない。

 空腹で今にも死に絶えそうな時、目の前に食べ物がたくさんあったら、無我夢中で食べて必死になって空腹を満たそうとする。満腹になってしまうと、もうそれ以上は食べられない。つまり、満腹は幸せの絶頂であって、後は下降するしかない。満腹になる前の段階では、幸せの絶頂期ではないが、もっと食べたい、言い換えるともっと幸せになりないと思うだろう。この段階が、本当の幸せなのかもしれない。

 その意味において幸せでないから幸せなのだと言えるだろう。幸せになってしまったら、それは不幸の始まりを告げる。満腹になってまた時間が経つと空腹になるのと同じことだ。

人生 1とは

 この世の中はいろいろな情報が交錯している。真実の情報もあれば根も葉もない情報もある。その中で、物事の本質を貫いている情報は全体のどのくらいの割合だろうか?そもそも物事の本質を貫いている情報とはそれぞれ各人異なっているから一概に決める事は出来ないだろう。

 ここでいう情報とは、主に思想信条や慣習などの事を表している。物事の本質を限界はあるものの身に付けることが出来れば、奥の深いまるで宇宙のような広がりを見せた人物になれるに違いない。

 私は決して器量のある人間ではない。けれども分母は小さいけれど分子を増やしていけば、結果1となり、全部が満たされる。100分の100も200分の200も一緒である。つまり、器量のあるか否かにかかわらず、1の状態がその人の最大限の人生における奥深さという事になる。分母はその人が身につけなければならない物事の本質の量で、分子が現在身につけている物事の本質の量である。

 人間は無限の可能性を秘めている。もちろん年齢なんて無関係だ。生きている限りこの理は当てはまる。だから1の状態にすることは不可能に近いが、それでも私は限りなく1に近い1を目指していきたいと思う。