思考の整理学 I 不幸な逆説
学校がグライダー訓練所のようになってしまうのも、やむを得ない。小学校へ入るこどもは、まだ、勉強がよく分かっていない。先生に言われるように勉強しなさい、とひっぱるものがあるから、動き出す。自分で動くのではない。受身だ。
教育は学校で始まったものではない。学校のない時代でも教育は行われていた。
剣の修業を例に挙げると、入門しても、すぐ教えるようなことはしない。じらせておいてから、やっと教える。
なぜ、教えてくれないのか、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。そのことをかつての教育者は心得ていた。あえて教え惜しみをする。
師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。
昔の人は、こうして受動的に流されやすい学習を積極的にすることに成功していた。グライダーを飛行機に転換させる知恵である。
それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受け身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。
文化が複雑になってくると、自由に飛びまわることが難しくなる。創造性がやかましく言われ出したのは、わずかながら、これではいけないという反省が生まれつつあるのを物語っているとしてよかろう。ただ、まだ、本当の創造の方法はほとんど考えられていない。
文章の要約になっているか分からないけれども、自分が大事だと思うところを抜き書きしてみました。
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