日記3 思想の自由のありがさ

 (下記の文章は実際の事柄とは無関係であり、私が作出した世界観に基づく)


 人には、名前が存在する。しかし、ここでは違う。皆、固有の番号で管理されている。私は、D88910で管理されており、名前は、一切呼ばれない。私の名前は、果たして、なんだったかな?

 

 ここへ来てかれこれ三十年以上経つ。私が、二十歳になる前、総務省の検閲に引っかかり思想犯として入所した。少々猥褻な漫画を描いていただけなのに、突然、自宅へ警察の連中が押し寄せ、御用となった。無期懲役だった。現在、ウェルメント刑務所へ服役中の還暦間際の私は、仮釈放がでることを切願している。

 

 獄中死。一番避けたい言葉だ。周囲の受刑者が幾人もそれで亡くなっている。彼らは、法に触れたことは一切しておらず、日本社会の思想を乱した者として警察の半ば恣意的感情によって逮捕された者ばかりだ。皆が、この理不尽さにやり切れない思いである。私らは、運が悪かったから逮捕されたのだと。しかし、仮釈放が出される可能性は、皆無に近い。その仕組は、形骸化しており、出されるのは、全体の数パーセントほどだ。

 

 数日前、骨皮と化した一人の老人受刑者が担架から運び出される姿を目の当たりにした。もう一人では動くことも出来ず、ほぼ寝たきりだ。私も仮釈放が出なければ、あのような姿になるまでここで暮らすことになるのかと思うと、しばらく言葉が出せなかった。


 独房は一畳ほどのスペースしかなく、そこでひたすら折り紙の鶴を折り続ける。何故折り紙の鶴か?理由は、特にない。強いて挙げるならば、紙でできたものは、処分しやすいといった点だろうか。真意はわからないが、他の受刑者が、刑務官がその折った鶴をゴミ箱に捨てている現場を見たと話しているのを、昼食時に小耳に挟んだことがある。


 私は、何を希望として生きていけば良いのだろうか?ここへ来る前は、仕事があり、家族がいて、それでいて自由があった。それらが一瞬にして奪われた現在、一体何をー。一縷の望みの仮釈放も役に立ちはしない。一度は、自殺も考えた。だが、ほぼ一日中管理されている中では、それも出来なかった。空のペットボトルと一緒だ。死にはしないが、ただ生命を維持するだけ。何の楽しみもない。無味乾燥とした日が過ぎていくだけだ。空のペットボトルに中身が欲しい。だが、ここでは、中身を手に入れることはできまい。


 将来、思想の自由が認められれば、思想犯で捕まる人々もいなくなり、私らのように理不尽な処遇も受けずに済むのだが。そして、警察の恣意さえなくなればー。


 いずれそのような世の中が来るのだろうか?私は、生まれてくる時代を間違えたのかもしれない。