そのニ 法律が大人の喧嘩の武器だ!

 田村自身は酒に酔っていて気が付かなかったが、あの初老の紳士から名刺を預かっていたことに今更ながら気が付いた。そこには大野行政書士事務所大野勇と記されていた。大野さんというのか。お礼をしないとな。

 田村は、都会の路地をひた歩く。大野の事務所に行くためだ。目的地に着く道中、別の行政書士事務所があり、老夫婦が営んでいた。どうやら、夫婦喧嘩をしているらしい。規制緩和の時代、役所手続もめっきり減ってしまったらしく、行政書士の仕事がないみたいだ。妻は、「仕事がないんは、あんたの能力が足りんのじゃ」と目くじら立てて怒鳴っていた。

 大野事務所に着くと、強面の兄ちゃんに大野の下へと案内された。開口一番、大野は「どうでした、あれから」と言った。「おかげ様で」と恐縮気味に答えた。

 大野曰く、怒突ビルメンテの社長の行為は、労働基準法に違反していたのだそうだ。そこで脅しの手紙を書いた。社会の掟を破れば、家族や仕事など人生の大事なものを一気に失うことになる。その掟の一つが法律だ。もし仮に、内容証明の脅しが無視されたら、それが現実になるだけだ。一枚の紙切れで人の人生を大きく左右する。私の仕事はそのような仕事だ。

「どうかね、せっかくの機会だ。うちの仕事をのぞいてみないか?」という質問に田村は二つ返事で了承した。

 事務所の一角には岸田夫妻が相談に来ていた。どうやら、夫がいくつかの業者から借金をしているらしい。不況時には借金する者が増えるという。田村は、自分の知識を使って人助けできる行政書士に魅力を覚えていた。現在、会社をクビになって失業中である。

「ところで、さっき、この依頼者と挨拶していたが、知り合いかね?」田村は、依頼者にここの職員と間違えられたのだ。

「事情は一通り知ってるみたいだし、この案件に加わってみるか?」「いいんですか、是非」

 信用情報機関で調べてもらった結果、夫に250万の借金があることが分かり、本人申告制度を適用した。この制度は、借金グセがあることを登録しておくものだ。ローンやカードを作成する際、金貸しはここに照会する。これで夫はどこの業者からも金を借りられなくなる。

 田村は、事務所に戻ると行政書士について考えた。僕も3年くらい死ぬ気で勉強すればなれるかもしれない。でも資格を取ってもノウハウがないとさえない書士人生だ。いや、待てよ。目の前にノウハウを持っている大野がいるではないか。これはチャンスかもしれないぞ。

「先生なんでもしますんで僕を雇ってください。」

「いきなりそんなことを言われても。それに人は足りているしな」

「僕は行政書士になりたいんです」

大野は、田村をカエルを睨む蛇のような鋭い目付きになった。

「わかった。ただし、うちに来るか否かは自分で決めてもらう」

「はい、なんでもやります」

「なんでもやるか」

大野は意味深な出立ちだった。

「君はプロという言葉の意味をわかっとらん」