思いを形に

 ゆとり君というYouTuberがいる。彼は、日々の出来事を発信しているのだが、終始愚痴ばかりだ。視聴する私は、ものの20〜30秒するとその動画を閉じてしまうが、更新の動画があると必ず見るようにしている。チャンネル登録もしている。

 

 視聴する価値の有無は、その人それぞれだと思っている。私は、ゆとり君みたいになってはいけないという自分への戒めのために見ている。

 

 人間は不満があると愚痴を言うか、もしくは、愚痴を言わずに不満が出ないように努力するかの二つに分けることが出来ると思う。適度な愚痴はいいかもしれないが、限度を超えると、醜悪だ。ゆとり君は、紛れもなく前者の方だ。少し生活の工夫をするだけで不満が解消されるのに、それをせずただ愚痴る。そうだ、彼は何の努力もしていないのだ。自分を少しも変えようとしていない。


 努力した結果なら、それはそれで自分自身納得がいく。だから、愚痴は生まれない。


 人間は、ある意味形のない化け物と一緒だと思う。美しくもなれるし、一方で醜くもなる。水木しげるさんの代表作「ゲゲゲの鬼太郎」では、人間と妖怪が共に暮らしていくためには、に焦点が当てられている。姿形が違うだけで本質は、人間も妖怪も一緒だと思う。自分とは全く異質のものと接するとき、衝突が起きたり、非難が生まれたりするのかもしれない。


 ゆとり君は、私からは異質にみえた。化け物とは言わないが、別の生き物のようにみえた。そのように捉えると、妖怪も実は人間なのだと思うときがある。異端、つまり社会の少数派の人たちが妖怪誕生のきっかけになっていると思う。


 話の内容に統一がないが、人間の思うことなんて所詮はこんなもんだと私は思っている。パッと思い浮かんでは消え、また浮かんでくる、思いは、死ぬ直前まで生まれたり消えたりを繰り返すと思う。思いを別の言葉に置き換えると、まさに不死鳥がふさわしいと思う。


 思うことの他には考えることも人間にはある。思いを形にすることが考えることなのかなと思う。絵にしたり言葉にしたり、文章にしたり形は様々だ。技術がこの先さらに進化したら、機械に思いが生まれることはあるのだろうか?推測ではなく、思いがー。