日記 死について

 私は思う。毎日フランスパンとコーヒーがあればそれで幸せだと。タバコも酒も要らない。死際にタバコを一本吹かすよりも一片のパンをかじりながら死んでいく。これが私の本望だ。

 私は死について考えることが多い。死とは生まれる以前の状態に戻るだけだ。つまり、無の世界だ。それについて考えることは、およそ無意味だが、なぜか死について考える。死に対する恐怖心から来るものだろうか?では、なぜ死に対する恐怖が生まれる?それは、現在私が生きているからである。死から逃れるために死について考えているのだ。そのような意味において、生きることを考えることと、死から逃れることを考えることは同一だ。けれど、完全に同一かと言われると疑問である。

 例えば、私が戦地に派遣されたとしよう。そのようなとき、生きることを考えるより死から逃れることを考えるだろう。反対に私が末期のガンに罹っていた場合、死から逃れることよりも生きることを考えるだろう。

 おそらく、死が近い将来確実に訪れる場合は生きることを考え、死がいつやって来るか分からない場合は死から逃れることを考える。要するにいつ死ぬかの不確実性が高まれば高まるほど、人は生きることを考えるよりも死から逃れることを考えるのだと思う。だから、私は死から逃れることについて考える。故に、私は死について考える。